senehata’s blog

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哲学雑記 仮想空間についての考察

 将来を考えてみるとIot化が促進される事は間違いないだろう。そして、人類は脳にプラグを繋げて、仮想空間に入り込むのも時間の問題となってくるのかもしれない。となると、その「仮想空間」とは何だ。といった議論が必ず出てくるであろう。だから今回は将来、盛んに議論されるであろう仮想空間とは何かを先取りして考えていくことにする。

実際に私はこの仮想空間とは何だろうかといった疑問に招かれたことも一つの動機として、ゲーム制作を行っている。本考察とは直接的な関係はないのだが、近いうちに私が作ったゲームを引き合いにして、仮想空間についての考察をするかもしれない。であるから、もしどんなゲームを作っているのか興味がある方は以下リンクから覗いてみるのも良いかもしれない。

TreasureHunt in Openworld | フリーゲーム投稿サイト unityroom

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自作ゲームの中の空間

1.物質世界、感性世界、仮想空間の定義

 仮想空間を考えるのに便利なので、世界を3つに分けたい。物質世界感性世界仮想空間である。今からそれぞれの言葉を定義する。
 
まず、物質世界とは「数学的解釈が可能な世界」か「人間の知覚できるものによって形作られる世界」のどちらの定義を採用するか吟味する必要がある。(前者は世界を数学的に解釈できるから、無限が存在したり、多次元空間も考えられる。後者は人間の知覚の限界が世界に反映されるから、例えば、無限が世界に存在するとは考えられないし、4次元以上の空間の風景は考えられない。)
 
今回の考察では、人間心理に深く根差すと思われる議論をするので、後者の定義を採用することとする。(物質世界=人間の知覚できるものによって形作られる世界
 
また、感性世界とは、主体的もしくは偶然に過去に経験した知覚を忠実、もしくは自由に組み換えて想像の中に、何らかの風景を思い浮かべたりする時の、その「風景」の事とする。
 
最後に仮想空間。今から中身を考えていくものなので簡単にしか定義しないが、仮想空間とはコンピュータ上で人工的に作られた空間の事とする。
 
分かりやすくするため、簡略化してまとめてみると
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物質世界→人間の知覚できるものによって形作られる世界
感性世界→頭の中で記憶(風景)を思い起こしたり、新たな風景を想像したりするときの「風景」
仮想空間→コンピュータ上の人工的に作れる空間
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2.物質世界と感性世界の関係

 我々が頭の中に風景を作るときに、その材料は物質世界から引っ張ってくるだろうが、その材料を自由に組み合わせて、新しい風景(感性世界)を描くことができる。だから、人間の認識能力の限界の範囲内(4次元とかは考えられない)で、自由に風景を描くことができる。
 
だから、「感性世界は、物質世界が無いと、そもそも作ることができないが、感性世界は、物質世界よりも自由な風景を表現できる。
 
分かりやすくするために、感性世界をA、物質世界をBとして、言葉の置き換えを行ってみる。
「AはBが存在しないと、Aは存在しないが、AはBよりも表現の自由度が高い」
さらにまとめると、
「Bが存在することでAが存在できる。AはBよりも表現の自由度が高い」
つまり、
物質世界が存在することで、感性世界が存在できる。感性世界は物質世界よりも表現の自由度が高い
という帰結が得られた。
 

3.感性世界と仮想空間の関係

 仮想空間を作るとき、人間は自分の頭の中の風景(感性世界)を思い浮かべながら、作るのであるから、仮想空間は感性世界の「写し鏡」であることが分かる。で、ここで疑問が湧く。それは、仮想空間はどの程度の完成度で感性世界を写す(模倣)事ができるのか。乃ち、感性世界の風景を仮想世界に写す際に、どれだけ感性世界の内容を維持したまま、仮想空間に落とし込むことができるのか。というのが疑問である。
 
ではこの疑問について考察していく。人間の模倣の緻密さの限界ってどのくらいなのだろうか。手書きの絵画については絵を描くことの熟練度により、限界が露になってしまうだろう。しかし、現在のCG技術では、現実と見間違えるほど描写が精巧な画像、動画を作ることができ、それを仮想空間の作成に応用することができる。だから、現在の技術では完璧とは言えないかもしれないが、かなり高い精度。すなわち、かなり注意深く目をこらさなければ現実と見間違える程、リアルな仮想空間を作ることができる。
 
したがって、かなり注意深く目をこらさなければ現実と見違える正確さで、仮想空間へ感性世界の風景を写す事が可能である。という事が分かる。

4.仮想空間とは何かの結論

今までの結論をまとめると、
「物質世界が存在することで、感性世界が存在できるが、感性世界は、人間の認識能力の限界の範囲内で、物質世界よりも自由度が高い。また、仮想空間はかなり注意深く目をこらさなければ、現実と見間違える正確さで、感性世界を写す事が可能。」ということが分かった。
 
そして、物質空間と仮想空間を、「感性世界」を経由して直接的に考えてみると、次の結論が得られる。
 
仮想空間とは、物質世界が存在することで、存在できる。また、2つの限界の範囲内で、物質世界より自由に表現できる。
 
2つの限界とは
1→認識能力の限界。(4次元を考えられない等。)
2→CG技術(コンピュータの性能)による、模倣の完成度の限界。

5.今後の展望

 今回の考察によって、仮想空間について考察を進めることができた。特に仮想空間は物質世界よりも、表現の自由度が高いと言う事が、とても大事になってくるであろうキーワードのように思える。例えば、ゲームを芸術に生かすこともできるのではないか。また、VRやXR技術を使って、物質世界を自由にカスタマイズできるかのように感じる世界をつくれるのではないか。とか色々と面白そうなものをもたらしてくれる予感がする。
また、今回の考察では、仮想空間のまだ、輪郭部分しか捉えられていないような気がする。仮想空間を考察するにあたっては、もちろんコンピュータを使うのであるから、数学や物理の知識も必要になってくるのであろう。
だから次回、仮想空間を考察する際は、今回の考察で得られた結論を生かしつつ、数学的アプローチや、仮想空間の応用先などを考えていきたいと思う。
 
何か質問、感想などあったらコメントしていただきたい。
 
 
 

ヒューム「人性論」の内容を分かりやすくザックリ解説

近世の哲学で「知識はすべて経験によるもの」と主張するイギリス経験論の流れを組む代表的な哲学者として、ヒュームがあげられる。そんな彼の主著の「人性論」では、まず「原因と結果」について、つまり「因果論」についての考察を残している。

今回は彼の深い思索を途中までナビゲートしていきたいと思う。

 

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デイヴィッド・ヒューム

この記事は中央公論新社が出版した人性論の抄訳を元に執筆しています。

1.観念と印象とは

感覚器官が事物を何であるかを見分けることを「知覚」と言うが、この知覚には二種類あるとヒュームは言う。それは「観念」と「印象」だ。観念とは、勢いのない思い浮かべられた事柄の姿のことで、印象とは、きわめて勢いよく激しく入り込む知覚である。単純にするなら、思考することと、感じることの違いだ。

そして、観念と印象はそれぞれ「単純」と「複雑」という性質に分けることができる。単純とは部分に区別できない事を表し、複雑とは部分に区別できることを表す。分かりやすく例えるなら、りんごは特殊な色、味、香りを持っている。これらは区別できるから「単純」な性質を持つものである。以下まとめ図。

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ここで、観念と印象は勢いの点を除くと、他のどんな点でも類似があることが分か例えば、暗闇の中で作る赤の観念と、日の光の中で目に入る赤の印象は程度が違うだけで、本質上の違いはないと言う。

すると、これら2つは対応していると考えることができ、「観念と印象のうち、どちらが原因で、どちらが結果なのか?」という「人性論」のこれからの主題となる問いが生まれる。

ここで、いきなりヒュームは命題を立てる

初めて現われるときの単純観念はすべて、それと対応し、それが正確に再現する単純印象に起因する

つまり、単純印象が原因。単純観念が結果であるということ。ここから経験主義的な考え方が見て取れる。

この命題を裏付ける例を考えた。例えば、生まれつき盲目である場合のように、たまたま障害を受けて働かないときには、常に印象だけではなくこれに対応する観念もまた失われる。

2.観念と印象の流れ

議論が複雑になってくるので、まず図を見てほしい。

 

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印象には「感覚の印象」と「反省の印象」があるとヒュームは言う。 この図から、反省の印象の方が先になるのはこれに対応する観念に対してだけで、感覚の観念に対してはこれより後になり、反省の印象は感覚の観念に起因することが分かる。

ヒュームは観念と印象の細やかな流れを見抜いたのだ。

3.記憶と想像の観念

 上の図からも分かるように、どんな印象も心に現れると、ある程度の時間を経て再び観念として心に現れることがあるが、この観念には二通りの現れ方がある。それは「記憶」と「想像」であると言う。「記憶」とは新たに現れるとき最初の活気をかなりの程度まで保持していて、「想像」とはすっかり活気を失って完全な観念であるようなものである。

この二つの観念の間には、記憶の機能が対象を描き出す強さの違いがあることは明白だが、これに劣らないもう一つの相違がある。

それは、想像のほうはそのもとの印象と同じ順序、同じ形に拘束されないのに対し、記憶に関してはその点においてある意味で拘束されており、変形する力を少しも持っていないことである。

4.因果論の展望

 単純観念は想像によって、好きなようにどんな形にでも分離、結合するから、もし仮に想像がその働きをいつ、どんな場合でも、ある程度一様にするようないくつかの普遍的な原理によって導かれるのでないのならば、いつも同じ単純観念が(普通そうなっているように)定まった仕方で複雑観念となるのは不可能であることが分かる。

彼はその普遍的な原理を3つ考えた。「類似」、時間的もしくは場所的な「近接」、そして「原因と結果」である。そして、最後の「原因と結果」の関係ほど、想像において強い結合を生じ、一つの観念から別の観念へたやすく思い起こさせる関係はないだろう。と断言する。

このようにして、ヒュームは「原因と結果」について、すなわち、「因果論」について考えていくことになるのだ。

今回はヒュームが因果論を考えるにあたって使う大事な概念を解説した。

ヒュームの思想についてもまた続きを執筆したいと思う。

何か質問したいことなどあったらコメントしていただきたい。

 

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思いの他、この記事が安定して読まれていて嬉しい限りなのですが、実は僕は他のサイトを既に長らく運営しています。

 

内容はというと、ほんとにどうでもいいことを書きなぐっているような趣味ブログなのですが、もし興味が少しでも湧いたら、是非下記のブログに遊びに来てほしいです!

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哲学雑記 無限についての考察

哲学雑記 無限についての考察

∞の記号を見たことがあるだろうか。高校で数Ⅲを取った方なら分かるだろう。自分はなぜだか不明だが、小学生の頃に友達から教えてもらった事があった。当時はとにかく途方も無く大きな数なのだな。といった風にしか捉えていなかった。

しかし、「無限」は現実世界にあるのだろうか?

この問いを考えることは、この世界は果たして有限なのか、それとも無限なのかといった大きな問にも繋がるように思われる。であるから、今から無限についての性質について考えたことを書き込んでいきたいと思う。

本題に入る前に、無限を「果てしなく多いもの。または果てしなく大きいもの」と定義する。

1.物理的な無限

 結論を言うと「今この瞬間、物理世界には無限は存在しない」と思う。この宇宙はどのくらい広いのか?という疑問を投げかけられたとしよう。当然ながら、宇宙の広さは途方も無く大きく、一見果てしないように思われる。しかし、現代科学では宇宙の概形のモデルは段々分かってきている。宇宙は絶えず膨張している。というのが現在の定説だが、ある瞬間を切り取ったら、宇宙の概形は大体分かっているので、大雑把には宇宙の体積が分かるのでは無いであろうか。したがって、「今この瞬間、物理世界には無限は存在しない」と言えるのである。

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宇宙の概形 (出典 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6f/CMB_Timeline300_no_WMAP.jpg


2.数字の無限と人間の限界

観念とは、「頭の中だけで考えて生まれた考え方」の事とする。しかし、少し考えれば分かることだが、観念上には無限はある。例えば、数字だ。

数字は1.2.3.4...と当然だが、無限に果てしなく大きくすることができる。したがって、数字、即ち観念には無限は存在する。

しかし、観念と言っても、所詮は人間の脳という処理量においては有限のものが、無限を考えているのだから、何か矛盾があるように思える。例えば、先ほど例を挙げたような数字は、確かに無限に繰り返すことはできる。ただ、人間が一つずつ数字を増やしているという「作業」だけに意味があって、実際に無限に数字を増やし続けられる人はいない。とも考える事はできる。つまり、無限に長く生きている人を仮定できたら、無限に数字を大きくすることができる。ということになる。

3.検討

 1.物理的な無限では「今この瞬間、物理世界には無限は存在しない」と結論付けできたが、「今この瞬間」なだけであって、未来に目を向けたら無限に宇宙は膨張し続けるかもしれない。ただ、これも1.2.3.4...と数を順番に大きくしていっている状況と似ている気がする。つまり、どんどん膨張する宇宙を観測する「作業」に意味があって、実際に無限に宇宙の膨張を観測し続けることは不可能。という具合だ。

まだまだ、考察を深めていきたいのだが、長くなりすぎるのは良くないので、一旦ここで中断したいと思う。この考察は続けていく予定。